多くの人を更正に導いた下町の保護司、中澤さんの仕事に迫ります(写真:今井康一)

改造したバイクにまたがり、爆音を轟かせながら信号無視や蛇行運転を繰り返す。暴走行為のほか、対立するチームと抗争を起こし、ときには一般人にさえ襲い掛かる。暴走族の少年たちだ。中には暴力団とネットワークを持ったり、薬物を乱用したり、殺人などの重罪に手を染めたりする者もいる。近年は人数もグループ数も減少しているが、それでもまだ全国に5200名以上がいる(「平成29年版 犯罪白書」より)。

遭遇してしまったとき、できればかかわり合いになりたくない、と多くの方が思うであろう。筆者もその一人だ。しかしひるむことなく、暴走族をはじめとした120名以上の非行少年・犯罪者と向き合ってきた人がいる。世話を焼くのが大好きで、困っている人を見ると助けずにいられない性分。“下町のおばちゃん”という表現がぴったりの、保護司・中澤照子さん(75歳)だ。

犯罪や非行に走った人を支える「保護司」という仕事

そもそも、保護司という言葉はあまり聞きなれないかもしれない。簡単に言うと、犯罪や非行に走った人を更生させ、社会復帰の支援をする人たちだ。

主な役割として、保護観察がある。犯罪や非行をした人と定期的に面接し、更生のための約束事を守るように指導や、生活上の助言や就労の手助けを行うことだ。

そのほか、生活環境調整といって、少年院や刑務所に収容されている人が、スムーズに社会復帰を果たせるよう、釈放後の帰住先の調査、引受人との話合い、就職の確保などを行う。また、地域の犯罪予防活動も行っている。法務省が依頼する極めて重要な仕事だが、後述するようにすべてボランティアで行われている。

筆者は中澤さんの自宅を訪ね、テーブル越しに向き合っていた。小柄で、70歳を超えている中澤さん。武道の達人でもない。血の気の多い暴走族たちとかかわって、危険はないのだろうか? 尋ねると、「20年も保護司をしているけど、無傷よ。身の危険を感じたことなんて一度もありません」と返ってきた。


自宅のテーブルで100人以上の人と保護司として向き合ってきた(写真:今井康一)

「こないだなんかね、私が見ていた対象者(保護観察をしていた方)で、今は20代後半になった子から電話がきて、中澤さんを温泉に連れていきますって言ってくれたの。その気持ちだけで私は幸せだからいいよ、って答えたんだけど、みんな本気なのね。それで、その子の仲間たち6人で長野の温泉に連れてってくれたの。諏訪湖とか善光寺も回って、すっごく楽しかった。みんな元暴走族だから、車の運転がうまいしね(笑)」

中澤さんによると、非行少年たちは最初から悪だったわけではない。仲間や地域が好きで、たまたま加わったグループが暴走族だった。集団になると勢いがつき、結果的に非行に走ってしまった少年が多いという。

とはいえ、反社会勢力である彼らとどのように接し、どのように心を通わせ、更生させてきたのだろうか。そこには、生まれ持った中澤さんの性分と、信念と、日本人なら誰もが好きなあるメニューの存在があった。

保護司は自分の天職だと感じた

中澤さんが保護司になったのは1998年。友人から「保護司になったら?」と勧められたのがきっかけだった。当時は保護司という言葉すら知らなかったが、詳細を知ると、これこそ自分の天職だと感じた。

「私は文京区で生まれたんだけど、小学校の頃から人の面倒を見るのが好きだったの。いじめられている子を見ると助けたりね。19歳から新宿のジャズバーに通うようになって、そこに来るゲイや風俗で働く女性の相談に乗っていました。結婚して江東区に引っ越してからも、近所のトラブルや夫婦間のもめごとまで、相談されたら何でも聞いていましたね」

街で不良少年を見かけると、「何してんの? 元気?」と声をかけることも当たり前だったという中澤さん。そんな性格を熟知していた夫は、保護司になることに賛成したが、娘は猛反対だった。当時、対象者と面談を行うのは、保護司の自宅がほとんど。非行や犯罪に走った人を家にあげて、暴れられたり、逆恨みされて殴りこまれたりしたら……家族がそう心配するのも無理はない。しかし中澤さんは、家に招くことが、更生への第一歩だと考えていた。

「対象者たちは、家庭のぬくもりを感じないで育った子が多いんです。そういう子を『よく来たね』と最初に受け入れることが大事。信用しているから家にもあげるんだよ、と感じてもらえれば警戒もされない。心を開いてもらいやすくなるんですね」

ちなみに現在は、更生保護サポートセンターという施設が全国に設置されている。そのスペースを使って、対象者と面談ができるようになったのだ。しかし、家庭と比べると堅苦しい雰囲気のため、同施設での面接を嫌がる少年は少なくないという。そのため中澤さんも、自宅に招くことにこだわり続けている。

何とか娘を説得し、保護司としての活動を始めた中澤さん。受け持つ対象者の70%は未成年だという。犯罪歴は傷害、窃盗、薬物乱用などさまざまだ。


担当した1人ひとりのことを鮮明に覚えている(写真:今井康一)

初めて担当した少年のことを、中澤さんはよく覚えている。その彼は当時17歳の暴走族で、とにかく両親を嫌っており、まったく言うことを聞かなかった。保護司には事前に、対象者の犯罪歴や生い立ち、家族構成、家庭環境など詳細に書かれた資料が渡される。最初の面談は少年の家で、両親同席のもと行うことになった。中澤さんがまずしたのは、書類の内容を丸暗記することだった。

「だって、書類を見ながら話すと、向こうが緊張するでしょう。ここに僕のことが全部書いてあるんだ、って。私だったら嫌ですね。そうならないよう、書類の内容を全部覚えたんです。順番に言葉にするのではなく、頭の中でミキサーにかけて、滑らかに話せるように」

緊張しているのは両親も同じはずだと中澤さんは感じていた。少年が逮捕されてから、ホウムショウ、サイバンショ、ホゴカンサツなど聞きなれない言葉が飛び交うようになったはず。そこへ堅苦しい雰囲気の保護司が来て、事務的に話をしたら、委縮するだろうと思ったのだ。

「最初に垣根を取っ払おうと思って、『何かあればいつでも行きますし、うちに来てもらってもいい。気軽に電話してくださいね』と言ったんです。最初から肩に力を入れて、『一緒に更生しようね!』『まっとうな道に行かせるからね!』って熱くなると、煙たがられちゃいますから」

保護司は未知の生物ではなく、どこにでもいる気さくなおばさん。自分の敵ではなく、寄り添ってくれる味方。中澤さんの姿勢を見て、少年も両親もそう感じたようだった。それから少年・両親それぞれと面談をするようになり、少しずつ本音が語られていった。

少年が両親を嫌っていた理由

少年はなぜ両親を嫌っていたか。実は、彼が小学校2年の頃、一家は中国から日本に引っ越して来たのだった。父親は日本語がしゃべれず、母親がつくる料理は餃子ばかり。少年は本当は日本食が好きなのに、冷蔵庫を開けるとストックされた数百個の餃子があり、見るたびに苛立っていたという。それを聞いた中澤さんは、なんと母親を自宅に招いて料理を教えることにした。

息子の好物は、鶏肉のソテー、アジの干物、ホウレン草のお浸し。息子が面と向かって言えなかった本音を母親に伝えながら、料理を教えていった。

一方で息子と面談した際は、「お母さんはあなたのために一生懸命料理の勉強しているよ。可愛くて仕方ないのに、心を寄せてくれないって泣いてたよ」と、母の気持ちを伝えた。親子の関係性は、目に見えて改善していった。

そして、保護観察の最終日。最後の面談を終え、少年の家を出ようとする中澤さんに、彼は丁寧に礼を伝え、「バイクで送りましょうか?」と言った。暴走族にとってバイクは宝物。ピカピカに磨かれた400ccのそのバイクは、誰にも触らせたことがないという。少し考えて、中澤さんは迷わずバイクの後部座席にまたがった。

「保護司が暴走族のバイクに乗って、もし事故に遭ったら……って思ったけど、ここで断らないのが見せ所かなと。真冬の寒いときに、風を切って走ったんです。私を乗せてくれた彼の気持ちが伝わってきて、言葉じゃ言い表せないほど幸せな気持ちでした」

その後も交流は続き、中澤さんが「美味しい!」と言ったことから、母親は手作りの餃子を家に届けてくれた。少年も更生して社会に出て、結婚して子どももでき、幸せに暮らしているという。

中学生の頃から暴れん坊だったある少年は…

中澤さんが保護司を始めた1998年、暴走族の数は2万5000人以上(「平成29年版 犯罪白書」より)。現在の約5倍と、比べ物にならない規模だった。中澤さんの地域にも暴走族は多く、更生させたケースは数えきれない。


中澤さんの自宅には、保護司として向き合ってきた若者とその友人らとの思い出の写真が大事に飾ってある(写真:今井康一)

ある少年は、中学生の頃から暴れん坊だった。駅前のロータリーに友人たちとたむろし、同級生にプロレス技をかけている様子を、中澤さんはたびたび見かけていたという。彼は高校に進学するも、結局退学。暴走族に入り、中澤さんが担当することになった。いつものやり方で距離を縮め、本音で話してくれる信頼関係ができた後、こんなやり取りがあったという。

「その子はケンカが好きで、運動神経もいいから『そのエネルギーを生かす方法はないかね』って話したんです。そうしたら、『将来プロレスラーになりたい』と言うので、やればいいじゃんと。両親が元気で働いてくれているうちに、やるだけやってみなよって」

すっかりその気になった少年は、早速プロレス道場に入門。どこまで続くのか、半信半疑だった中澤さんの予想を裏切り、彼は海外修行にも行くなど、本格的にプロレスにのめりこんでいった。そしてついに、プロレスラーとしてデビューしたのだった。デビュー戦に、暴走族仲間たちと応援に駆け付けた中澤さんが、「行けー!」と声を張り上げたのは言うまでもない。

最初は大人を警戒し、敵視すらしていることが多い不良少年たち。彼らと心を通わせるために、中澤さんはどのようなことを意識しているのか。まずは、頼られたらどんな状況でもないがしろにせず、受け入れることだという。

「対象者から電話があったら、どんなに忙しくてもまずは話を聞きます。そうして受け入れて、安心感を与えてから、『いつなら相談に乗れるよ』と。『今は忙しいから』って電話を切るようなことは絶対にしません」

相談したいと連絡を受けたとき、時間さえあれば、食事中でも箸を置いて駆け付けるという中澤さん。彼らは切羽詰まっているから電話をかけてきているはず。そのときに支えてあげないと、悩みや苦しみがさらに広がってしまうからだ。

また、相手を褒めることも心掛けている。これまで怒られてばかりきた不良少年たち。いいところを探して褒めることで、彼らは自信がつき、面談もスムーズに進むという。

「うちに呼んで面談するときも、機嫌良く迎えて、気分良く帰すの。説教ばかり垂れて帰したら、『保護司のところに行ったら頭来た』となるでしょ。けれど褒めて気分良く帰せば、また次も行こうって思うだろうしね。褒めるところがなければ、歯並びいいねとか」

そして最後は、聞き手側に回りつつ、言うべきことはしっかり言う。面談のとき、自分が話すのは2〜3割。相手に不満や思いがあれば思う存分吐き出してもらい、それに耳を傾ける。ただし、再び悪事を働かないよう、釘を刺すことは忘れない。相手の感情の動きを見ながら、絶妙なタイミングで「最近は人様のものに手を出して(盗んで)ないよな」と差し込むのだ。一歩間違えれば機嫌を損ねたり、席を立たれたりしかねないが、中澤さんにはその瞬間がわかるという。

「話していると、相手の心のドアがさっと開くのがわかるわけです。そのときに、風をおくりこんじゃうっていうね。そこまでは時間がかかるけれど、ドアさえ開けばこっちのもの。あとは強く出ようが、乱暴な言葉を使おうが、向こうは受け入れてくれるんです」

中澤さん特製のカレーライス


これが名物「中澤さんのカレー」(写真:今井康一)

そういった心掛けや工夫のほかに、少年たちの心と胃袋をつかんだものがある。中澤さん特製のカレーライスだ。対象者を自宅に招くたびに、「おなか減ってるでしょ?」と手料理をふるまいながら面談を行ってきた中澤さん。スパゲッティや豚汁などさまざまなメニューを出してきたが、圧倒的に人気なのがカレーだった。“更生カレー”と呼ぶ人もいるという。一体、どんなカレーなのだろう。筆者もお願いして食べさせてもらった。

ルーはやや甘めで、優しくて懐かしい家庭の味。肉やジャガイモが大きく切られているのは、食べ盛りの少年たちに食べ応えを感じてもらうためだという。一人暮らしで、家庭料理をあまり食べる機会がない筆者は、たちまち平らげてしまった。「お代わりいるかい? コーヒーは? ケーキもあるよ」と、優しく声をかけられ、気づけば心も胃袋もつかまれていた。

中澤さんは地域活動として年に2回ほど、近所の人々の協力のもと、「カレー会」を開催している。多い時は400食も作り、集まった人々にふるまうのだとか。「カレー会にはね、良い子も悪い子も普通の子も関係なく集まるの。その親たちやボランティアの大学生も来て、全部で百何十人はいるかな。垣根なく、みんな来られるのがいいよね」。

平成29年現在、保護司は全国に4万8000人弱いる(全国保護司連盟ホームページより)。人によってやり方は十人十色だが、中澤さんほど労力を注いで、対象者や家族に接している人は多くないだろう。「私は私。皆さんは皆さんのやり方があっていい」と涼しい顔で言うが、その言葉の節々から使命感がにじみ出ている。

「法務省からは、もし危険な目に遭ったら、警察を呼んでくださいと言われているんです。けれどこっちは、警察が入り口で保護司が出口だと思っているわけ。また警察に戻してどうするんだい、ここで私が踏ん張らないと、という感じで。真っ白にならなくてもいい。けれど、預かったときより少しでも白に近づいて、社会に出てもらいたいですね」

保護司はボランティアのため、給料や報酬は出ない。面倒見がいいという性分はあるにせよ、労力や時間を注ぎ込んで、20年も保護司を続けている原動力は何なのだろう。尋ねると、中澤さんは目を細め、「人を喜ばせようと思って保護司をしているわけじゃないんです。けれど、自分のしたことが喜ばれると、私も一緒に嬉しくなっちゃうの。おまけがついちゃったみたいなね」と説明する。


保護司としての仕事は間もなく定年を迎える(写真:今井康一)

保護観察期間が終わった後、中澤さんと少年、その家族との関係が続くことは多い。冒頭で紹介した、温泉旅行に一緒に行った暴走族やプロレスラーをはじめ、何もなくてもカレーを食べに来たり、結婚式に来てほしいと誘われたり、子どもが生まれたから見に来てほしいと言われたり、何かあるたびに連絡が来るという。

「私のようなやり方していると、つながりは必要以上に濃くなるよね。当時はみんな悪ガキだったのに、大人になって会うと『中澤さん、面倒くさがらずにかかわってくれましたね』『俺なんかのために時間割いてくれてありがとうございました』と言ってくれたり。私のうわさを聞いた人から『息子を担当してください』って指名されたり。それがまた喜びだったりするんです」

中澤さんのような活動はそうそうまねできない。では、誰にも簡単にできる、ちょっとした社会活動はどんなことだろう。その問いに、中澤さんは「声がけです」と答える。

「エレベーターを降りるとき、ドアを押さえてくれた人に『そういう気づかいがさっとできるのは素晴らしいわね』とか、髪形をばっちり決めてる人に『決まってるわね、美容院行ってきたの?』とかね。私は誰にでも言っちゃうの。すると、5分でも10分でも気分が良くなってくれるかもしれない。みんなが声掛けをすればもっと長くなるし、自分を気にかけてくれる人がいると思えば、地元で悪いことをしようなんて思わなくなるしね」

一般人がいきなり保護司になるのはハードルが高い。であれば、保護司ではなくて、“保護司みたいな人”が町にいっぱいいてくれたらいい、と中澤さん。ボランティアという肩書を掲げなくても、一人ひとりが声掛けするだけで大きな社会活動になります、と笑顔で訴えた。

75歳の定年後に描く新しい「夢」

ライフワークとして保護司の活動を続けている中澤さん。しかし今年、引退を迎える。保護司の定年である75歳になったからだ。これからはどうするのか聞くと、「すぐ近くで喫茶店をやろうと思っています」と即答する。実はもう物件の契約もし、内装工事も進めているという。

「保護司が終わった後、どうしたら自分の人生を使いきれるのかって考えたとき、居場所づくりをしたいなって思ったんです。喫茶店なら、子どもたちとかその親とか保護司仲間とか、みんながいつでも集まれるでしょ。私の居場所にもなるしね」

ねえ、お店の名前、どんなのがいいと思う? カレーライスは出したほうがいいかしら? 中澤さんは楽しそうに話す。20年間の保護司生活は、まもなく終わる。しかし、そこから生まれた“つながり”という宝物はなくならない。保護司、いや、中澤のおばさんは、これからもすべての人に心を開き、受け入れ、そして明るい方向へ導いていくのだろう。